2005年12月02日

釈迦とキリストの教えはこんなに共通している(3.無条件の愛)

その3.父を捨てた子のたとえ話

ある男が父を捨てて家出し他国を放浪して五十年の歳月が経った。五十年経っても男はまだ放浪している。
その間に父親は子を追い求めることをあきらめ、大富豪になってある町に住んでいる。そこへ、放浪の息子が偶然やってくるのである。父はすぐにその男が我が子であると知ったが、貧窮の子はすでに父親の顔も忘れている。
父はこの貧人を巧みに邸内に連れ込み、貧人は掃除の仕事をするようになる。父は美服を脱ぎ、汚れた衣服をまとって貧人に近づき、励ます。
この貧窮の子は、最も賤しい仕事をさせられたにも関わらず、実に誠実にこの仕事をなした。
やがて父親は彼の仕事を賤しい仕事から次第に高度な仕事へ引き上げてゆき、最後に父親であることを明かして財産のすべてをその子に譲る。子は大いに歓喜した。
(法華経・信解品)

ある人にふたりの息子があった。
ところが、弟が父親に言った。「父よ、あなたの財産のうちで、私にいただく分をください」。財産を分けてもらった弟は、それから幾日も経たないうちに自分のものを全部まとめて遠いところへ行く。
そこで放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たし、やがて食べることにも窮するようになる。
そこで彼は本心に立ちかえって罪を悔い、こう考えた。「父のところへ帰って言おう。父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ雇い人のひとり同様にしてください」。
そこで彼は家に戻り、父の許しを乞う。父は彼を認め、哀れに思って走りより、その首を抱いて接吻した。
(新約聖書・ルカによる福音書)


仏典と聖書との双方に、父親と、家出をした不肖の息子の話が出てくるのは、単なる偶然でしょうか。

私はこれらを読んで、福島大学助教授・飯田史彦著「生きがいの創造」の中にあった、次のフレーズを思い出しました。
「私たちがこの世に生まれてくる理由は“人間関係”を学ぶためである。ここで私たちに問われることは、“相手を信頼することができるか”“信頼していた相手にたとえ裏切られたとしても、その相手を許すことができるか”という“愛”の基準である。」

一般的な道徳観から言えば、子供が父を捨てるということは許されない事でしょう。
しかし、仏典や聖書の中では、それが人間の成長の過程であるならば、子が父親を捨てる放浪の旅も許されているのです。
「可愛い子には旅させよ」という言葉もあります。

おそらく、ここに出てくる息子たちは、旅に出る前は、父親との価値観の違いや、父親の財産のことだけで頭が一杯で、親の子に対する深い愛情については考えてもいませんでした。
しかし、旅をして様々な人生経験を積むことによって、彼らが最後に知ったのは親の「無償の愛」なのでした。
このときはじめて、彼らは父親との、魂レベルでの「本物」の出逢いを果たしたのです。

これらはまた、神仏と、人生という旅の中で試行錯誤している人間(神の子・仏の子)との関係。キリスト教でいう見返りを求めない神の愛、仏教でいう仏の絶対的な慈悲の物語でもあります。



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posted by Y.Takahiro at 09:42 | 東京 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | └ 仏典と聖書の言葉に学ぶ
この記事へのコメント
心を揺さぶる言葉です。
「〜〜〜生まれてきた理由は人間関係を学ぶためである。」
つらいですね。
「感謝と反省」の気持ちを忘れないように心がけても、身に付いていないのかもしれないと感じています。私は与えてもらう「愛」に強欲で与える「愛」には鈍感(?)なのかも知れません。
「人を許す」ことがしにくい。

しばらく、この言葉をかみしめていたいと思います。
ありがとうございました。
Posted by papillon-e at 2005年12月07日 17:34
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